シニカル・アイロニー・懐疑主義(「Human?」Issue 1)
このエッセイはZINE「Human?」Issue 1に収録されたものです。
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僕は、自他ともに認める皮肉屋で、冷笑的なところがある。特に、初対面や、関係性の深くない人間の言動、行動の一挙手一投足を、とにかく皮肉的に見てしまうところがある。あらゆることに冷笑的で、一歩引くというよりは、ナナメ上から見ているという表現の方が適切だろう。何か盛り上がっていたりすると、そういう目線で見てしまう。
「皮肉的に/冷笑的に見てしまう」という言い方をしているが、別に欠点だとは決して思っていない。よく言えば、新しいものや新しい人に飛びつかず、まずはどのようなものなのか、人であればどんなことを考えているのかをとにかく観察して、ある程度は冷静な視点を提供できるという利点もあるだろう。
しかし、多くの場合、そう上手くはいかない。基本的にファーストインプレッションからしばらくは、〈怖い人〉と思われることが多い。特に、いわゆる〈思想が強い〉人でないほど、その傾向は高い。感情表現が必ずしも多くないということもあるだろう。僕は特に関係性が浅い人の前ではあまり感情を出さないようにしている。それは自分が相手を観察している一方、相手もまたこちらを観察していると思うからだ。こんな、何者かも分からない人間に、僕という人間を分かった気になられてたまるか!と、そんな思いからそうしてしまう。
とは言ったものの、僕がそうした、〈ナナメの人〉になった最も大きな転換期は、中学時代にあるだろう。
中学時代は僕にとって、必ずしもいい思い出で埋め尽くされた期間ではない。悩みが絶えない、しんどい時期だった。
その1つはいじめ的なことだ。もうもはや、細かいディテールを覚えているわけではないが、例えば女子に「死ねよ」とか、「キモい」とか言われたり、無視されたりもした。誰かに話したことが広まっていたり、反対に根も葉もない話が作られ、広められたりしていた。それがあってから、保健室登校になったり、スクールカウンセラーのいる部屋に通う時期があった。
そして、僕はこの経験があるため、トキシック・マスキュリニティという言葉に納得がいっていない節がある。男性の集団における男性性の顕示、マチズモは全く否定しないが、あらゆる物事がそうであるように、やはり良し悪しの両面があるように思う。そしてトキシック・マスキュリニティと同じくらい、〈有害な女性性〉についても語られるべきだろう。これは別にフェミニズムを妨げるものではないし、”家父長制”を保持するものでもない。僕がこの先、アンチフェミニストになるようなことがあれば、その原体験は間違いなくここにある。どの口が有害性について語っているんだ、そんなことをふと思う。
話を戻すと、僕はこの時期から人間を信頼する、少なくとも十分な確証なしには信頼することを諦めた。人類皆友達くらいの考えでいたが、この頃からシュミットよろしく、友と敵を明確に区別するようになった。ルーマンを研究するはるか前に、バイナリコードは僕の行動原理の一部になっていた。
そしてこの友と敵という話をすると、〈敵〉という言葉に対する反応をもらうことがある。シュミット自身はこの敵に、その本来的な意味も含意していたが、僕は必ずしもそうは思っていない。非・友、非・味方につけるラベルとして〈敵〉という言葉がちょうどいいくらいの考えでいる。だから別に敵だからといって、すぐに敵対的な行動に出るわけではないし、「好きの反対は無関心」に共鳴しているので、そもそも想定することもない。ただ単に、自分と他のシステム境界をつくるもの、差異は友であるか、敵であるかというバイナリコードというだけだ。
僕は人間を信じるのをやめた。
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他者の言動は、好意的に受け取ったり、真に受けるよりも、冷笑する、皮肉っておくくらいがちょうどいい。勝手に傷つくことももうない。根本的に、人間は悪であって、たまたまその人間の生育環境や社会状況、出会った人などの要素が揃った場合に〈善的にも振る舞える〉くらいのものだと思っている。だから僕も根本的には悪人だ。
だからこそ、こんな人間をそのまま愛してくれる人に出会えると、本当に生きていて良かったと心の底から思う。こんな人間を大事にしてくれる人がいるなんて、なんて僕は幸せなんだろう、そう思う。でも病的なシニカルさはここにも顔を出すので、大抵の犯罪者にも友人はいるし、悪名高きヒトラーにもパートナーがいたという事実を考えれば、大したことではないような気もしてしまう。
幸いなことに、僕はご縁に恵まれていると思う。幼稚園時代からの友人もいるし、大学以降に入った会社で出会った人の中にも、僕を気にかけてくれる人が何人もいる。ルーマン理論の出発点は、「なぜあり得そうもないことが現実に起きているのか?」とも言える。つまり、文字通り数多の可能性があった中で、どうして今経験している現実が実現したのか、そのあり得そうもなさの発現を問うているのだ。それを考えれば、本当に一瞬一瞬が奇跡であり、僕は無数の奇跡の上に立っている。そうして僕は奇跡の上で〈安定した自己〉を構成することができている。
「いったん愛しはじめると、私たちは傷つきやすくなる」(Rawls 1999=2010: 754)
そう述べたのは、現代の正義に関する議論の基盤となったジョン・ロールズである。愛は人を破滅しやすくさせる。愛する人同士は、その人に生じた不正義や不遇に自らを差し出すことで、さらにその紐帯を強める。恋愛が犠牲によって成り立つという側面はあながち間違っていないようだ。
「私たちが愛し続けているならば、自分たちの愛を後悔することはない」(Rawls 1999=2010: 755)
個人は、〈愛している〉という自己言及によって、他者への行動の原則が定められる。そして愛しているうちは、それを後悔することはない。なぜなら、愛しているからだ。
この考え方は僕の友敵理論にも完全に一致する。敵に与える愛はないが、僕が友と思っている人は徹底的に愛したい。当然、それなりの犠牲も厭わない。甘えたいし、褒められたいし、頼りにしてほしい。
僕はこの友敵理論によって、愛という有限のリソースを友に惜しみなく注げているのだと思う。それでも時に、「友側の人に裏切られたらしんどくない?」と聞かれるが、それはその通りだ。しかし、それは仕方のないことで、友に裏切られたらそれはもう、そういう運命として受け入れるくらいしかない。簡単に友と認識した結果、痛い目に遭ったことの方が苦しい。これからも友を愛し続けるため、僕のシニカル・アイロニー・懐疑主義が変わることはなさそうだ。
参考文献
Rawls, John, 1999, A Theory of Justice Revised Version, Harvard University Press.(川本隆史・福間聡・神島裕子訳, 『正義論 改訂版』紀伊國屋書店.)

