aboutとaround、そしてagainst
AIをめぐる3つの語りと失いかけているものについて
AIについて、あるいはAIをめぐる語りがにぎやかになってから、もう3、4年が経とうとしている。AI開発企業のアップデートを意気揚々と、驚きに満ち溢れた様子で発信する人、「AI時代のキャリア」とフレーミングして語る人、AIを駆使していること自体をこれまた意気揚々と語る人。AIについての議論、AIをめぐる議論と一口に言っても、その粒度やスタンスのバラエティは日に日に増えている。
ここでは少し、その語られ方の有り様について整理をしてみたい。私が提唱したいのは、「aboutの語り」「aroundの語り」「againstの語り」という3つの区分である。
aboutの語りとは、AIそれ自体について、モデルなどの技術についての語りを指す。aroundの語りとは、AIとその周縁部の相関的な語りであり、「AI時代のキャリア論」はここに含まれる。againstの語りとは、アンチAI、反AIの語りである。
3つのA
aboutの語りはもっとも分かりやすいだろう。AIそれ自体、その技術や実装についての語りである。arXivにアップロードされるプレプリントのほとんどは、この語りであると言ってよい。
aroundは少しややこしい。AIの周縁部をめぐる語りだ。社会システム論的に言うなら、AIという意味システムと他のシステムとの構造的カップリングによって産出されるコミュニケーション、と言えるだろう。ここで重要なのは、トピックがAIそのものか否かではなく、語りの主語がどこに置かれているかである。
たとえば、AIが産業や雇用に与えるインパクトについての語りであっても、それが開発当事者の視点から技術の帰結として書かれているなら、主語はAIのままであり、aboutの語りに属する。これに対してaroundの語りは、AIと、それを受け取る私たちの社会のありようとを、同時に主語に据える。「AI時代のキャリア」といったエッセイがここに入るのは、それが技術の話に見えて、その実、私たちがどう生きるかを語っているからである。aboutがAIそれ自体を指示するのに対し、aroundはAIと私(あるいは私たち)との関係を指示する。人間とAIのalignmentに関する記述、と言い換えてもよいかもしれない。
そして3つ目が、againstだ。これは、直近の米国で広がる「反AI」の動きが代表的と言っていいだろう。AIに対して明確に批判的なスタンスを取る言説のことを指している。
aroundの困難
このaroundの記述には、ひとつの困難がつきまとう。自己をめぐる記述であるはずなのに、書き手が容易に批評家的なスタンスを取れてしまう、という点である。
ここには残酷な不可能性がある。AIと自己との協働は、それを協働だと意識せずに営んでいるあいだだけ、協働でありつづける。ところが、その関係を語ろうとすれば、私はいったんAIと自己とを切り離し、両者を眺める位置に立たなければならない。そして切り離して眺めたその瞬間に、関係はもはや協働ではなくなっている。反省という行為が、協働を観察の対象へと変えてしまうからだ。だからaroundにとどまる限り、私は自分がAIに依存しているのか、それとも協働しているのかを、確かめることができない。確かめようとすること自体が、確かめたかった当の関係を別のものに変えてしまうからである。
こうしてaroundの記述では、自らについて語っているつもりが、実はどんどん自己から離れていく、という事態が起こる。単に主客の分離が進むだけではない。語っているはずの主体そのものが、次第に影を薄めていくのだ。
againstに見える主体
aroundが主体の輪郭を曖昧にしていくのに対して、againstの語りが示す自己は、きわめて明確である。
両者の違いは、AIとの関係をどう扱うかにある。aroundがAIと自己の関係を観測しようとする語りであるのに対し、againstはその関係を切断し、拒絶する語りである。aroundが関係のなかにとどまったまま自己を見失っていくのとは反対に、againstは関係を断ち切ることで自己を取り戻そうとする。
ここでルーマン的な補助線を一本引いてみたい。システムは、環境との差異(区別)によって自己を産出する。againstの語りは、まさに「私/AI」という区別を引くことによって、「私」を再産出しようとする身振りに見える。AIという環境がせり上がってきたとき、それとの境界を引き直すことによってしか、「私」は「私」でありつづけられない。だからagainstは、一見するとAI批判でありながら、その実、自己の輪郭を保つための作業なのではないか。
反AIの動きは、しばしばAIの浸透による雇用不安や産業構造の変化、とりわけ新卒が直面している状況に対する反動として、あるいは声優や俳優、芸術家といった人々による反動として捉えられる。だが、それだけでは捉えきれないものがある。雇用や産業への反動という説明は、なぜその反動が「人間性」という言葉をまとって現れるのかを説明しない。ここでさきほどの補助線が効いてくる。AIという環境との境界を引き直す作業が「私」の再産出であるとすれば、againstが守ろうとしている「人間性」とは、AIに対置されることで初めて輪郭を得る「私」のことにほかならない。人間性の回復運動とは、失われた何かを取り戻す運動である以前に、AIという他者を立てることで自己の輪郭を引き直す運動なのだ。だからこそそれは、雇用や産業の損得に還元されることを拒み、「人間とは何か」という語彙でしか語られえない。
自己を記述せよ
この3つのフレームを使って「AI」を含む記述を整理すると、よいことがある。その文章、あるいはその語りが、いったい何について語っているのかが明確になる、ということだ。
ひとくちに「AI」を語ると言っても、その内実はさまざまである。技術そのものの解説もあれば、「AI時代の〜〜」と題したただの自分語りもあり、あるいはAIへの嫌悪をきっかけに自己を見出そうとするものもある。about・around・againstという区別を用いることで、その文章が、ひいてはその著者が、何について語っていて、何については語っていないのかを理解することができる。
だが、この区別が照らし出すのは、それぞれの語りが扱う対象だけではない。そこには、主体と環境とのあいだのトレードオフとでも呼ぶべきものが浮かび上がってくる。aroundにとどまろうとする語りほど、AIとの関係のなかに自己を溶かし込み、主体の輪郭は痩せていく。逆にagainstに振れる語りほど、主体の輪郭はくっきりと濃くなるが、その代償としてAIという環境を敵に回し、自己を環境から切り離してしまう。主体を保とうとすれば環境を失い、環境のなかにとどまろうとすれば主体を失う。
ではaboutはどうか。aboutは、主語をAIそれ自体に固定することで、この緊張をそもそも引き受けずに済ませる語りである。私とAIの関係を問わず、AIだけを眺めているあいだは、主体が痩せることも環境を敵に回すこともない。緊張がないのではなく、主語の置き方によって緊張を回避しているのだ。だからaboutの語りがふいに「だから私たちはこう備えるべきだ」と私たちを主語に引き入れた瞬間、それはaroundへと滑り落ち、先ほどの緊張のなかへ投げ込まれる。
AIをめぐるどの語りも、程度の差こそあれ、この緊張のうえに、あるいはその回避のうえに成り立っている。だとすれば、自己を記述せよという要請は、この緊張のどこに自分が立っているのか、あるいはどこでそれを避けているのかを引き受けよ、という要請にほかならない。
そして私がいま書いているこの文章もまた、AIと自己との関係を語ろうとした時点で、すでにaroundのあの不可能性のただなかにある。
(サムネは拾い画)

