偶然性の問題について①
オチも何もない日常の記録
つい先日、予想にもしなかった人から連絡があった。その翌日、小1時間電話で話をした。その人というのは何と言えばいいのか分からない不思議な関係で、年に1回くらい電話をするだけだ。時折り互いのSNSを見ながら大きな出来事があれば祝福のメッセージを送り合うだけだ。それ以外に殆ど話すこともなければ、もちろん会うこともない。
知り合って何年になるだろうか。出会ったのは僕が学部3年か4年の秋頃だったと思う。その人は当時、僕と同じく東京に住んでいて、2回だけ実際に会った。そしてそれよりは多い数、電話で話をした。
出会ったのはマッチングアプリだった。それも一番有名で、一番治安が悪いアプリ(と少なくとも自分は思っている)だった。そういう意味では当然、お互いに恋愛対象なのか、関係が深まる/深められる可能性があるのかについて、品定めをしていたのだと思う。
疎遠になったきっかけが何だったのか明確に覚えていない。僕自体は好意を持っていたし、それは伝わっていたと思う。人としても、自分の仕事に情熱と誇りを持って取り組んでいる姿を尊敬していた。
今思えば、疎遠になったのはその人に彼氏ができたことを聞いたのがきっかけだったと思う。その報告を電話で聞いたような記憶がある。驚きと悲しみと、喜びとが入り混じった感情の中、必死に取り繕って「よかったっすね」みたいなことを言ったんだと思う。今思うと情けないとも感じる。でも他に選択肢はなかった。実際にスマホから聞こえてくるその人の声はいつもより少しだけ高かったのを覚えている。
関係性が希薄になった後も、誕生日のメッセージを送りあったり、定期的に電話で近況報告をし合った。いつもメッセージの起点はその人だった。
先日に話を戻す。1年ぶりにその人からメッセージが来た。「明日10分くらい話せないか」という旨だった。特に断る用もなかったのでいいですよと答えて電話をする時間を決めた。その人は、テキストだと説明が難しいから事情は当日説明すると言っていた。
翌日の朝、電話をかけると懐かしい声が聞こえた。関東の人の話し方に関西弁が混ざっている。それ以外に特に変わったことはなかった。いつものままのその人だった。話を聞くと彼氏と喧嘩をしたり、周りの環境に思うところがあって久しぶりに尊敬する”後輩”である僕と話したくなったという。
話し始めたら10分で終わるわけがなかった。前回電話してから今までのお互いの話、その人が電話したくなった経緯など、話すことは色々とあった。結局、2時間近く電話した。その電話で僕は数年前の出会いと、今の関係性になった理由、その答えを偶然にも知ることになった。
その人は実際に僕と会った時、「私に関心がない」と思ったという。緊張で潰れそうになっている時ほど、人から心配されないどころか自信があると思われる自分のクセを思い出した。その人には、今の関係ではない関係性で僕と関わる未来が見えなかったという。
こうしてあの時、異なる未来の萌芽を潰したのが自分の行動だったことを知った。でもあの時、今に続く方向に進んだ結果、こうして適度に互いを気にかけながら、年1回電話する奇妙な関係にできたとも考えられる。そうでなかった未来で、今のような心地よさでその人と関係が続いていた保証はない。
そうは言っても、なんとも言えない歯切れの悪い、心地の悪い感覚が残っている。その人は疎遠になった頃からニューヨークで仕事をしている。まだ暫くは向こうで仕事をしていたいと言っていた。そして過去に告げられた彼氏とは今も続いているだけではなく、婚約を目前にしているという。
これで良かったのだ。と、思うことにした。そうしてその人が少しでも多くの時間、幸せと言わずとも、せめて辛く苦しいことと無縁であって欲しいと願うことにした。
他者の幸せをただ祈り、願うことが自分にとっても心地の良いことだと思う。どうか、少なくとも僕を様々なカタチで愛してくれる人が少しでも多くの時間、幸せを感じられますように。どうか、その人たちがまた、同じように愛する人の幸せを願ってくれますように、そうしてその輪が広がって世界が今よりもマシになって欲しいと本当に思っている。
とは言っても願うだけでそうなるほど甘くない世の中でもある。
大学院で「国際政治と平和研究」というゼミ形式の授業を取っていた時、国際政治における様々な立場を紹介した上で各人がどの立場を支持するのかディスカッションしたことがあった。
僕はコスモポリタニズムを支持し、遠い未来にでも世界共和国が樹立されることを望んでいる。グローバルガバナンスではなく、アースガバナンスと言ってもいいのかもしれない。
一方で、僕は同い年と年下が本当に嫌いだ。関わりを積極的に持ちたくないし、できることなら関わりたくない。説明や話が長い人も嫌い。駅の階段目前で立ち止まる人間も嫌いだ。訳知った顔をするが何も知らない人間も嫌い。政党別のYouTube再生回数の棒グラフを作ってインターネット言論空間を分かった気になっているメディアと記者も嫌いだ。何の準備も下調べもせずにヒアリングやミーティングをセットする人はもちろん、予定した時間より早くミーティングが終わってもアジェンダを捻り出して時間いっぱい使おうとする人も嫌いだ。嫌いな人は無数に出てくる。そして後段になるほど具体的な人間が浮かんでいるような気もする。
その人との電話で得た教訓はどんなカタチであれ、好きな人にはもっと好きとさまざまな方法で伝えることだったはずだ。そしてその人たちの幸せを願い、人類が平和の共同体を形成するその一歩を進めることこそが僕の人生の目標なのだと思う。だから、そうした嫌いな人の幸せも願いつつ、事前準備をしてこなかった人ではなく、その罪を憎める人間であるべきなのだと思う。
そうしていつかは、さまざまな偶然の交錯の果てで今よりも幸せな自分、今よりも幸せの総量が多い世界で生きていたい。

