衆愚民主主義について
現代の問題
今、われわれが直面している大きな問題の一つは、政府の対応が常に遅く感じられたり、まるで見当違いのことを行っているように見えることである。例えば、政策決定のプロセスが明確に可視化されず、国会や行政の手続きが市民から「何をしているのか分からない」「特定の個人や団体の利益を守っているのではないか」という印象を抱かせてしまっている。実際、言論NPOの調査によれば、日本では「政府にあまり信頼を寄せていない/全く信頼していない」とする回答が半数以上を占めている。
また、その一方で、マスメディアもまた「信用に足らない」と感じられている。典型的には、報道機関がどのようにニュースを選び、どのようなアジェンダを設定しているか、その過程が不透明であるという疑念が払拭されていない。さらに、「愚か」とみなされる大衆が、リベラル・保守の枠を超え、むしろポピュリストを好む傾向が強まっているように思われる。こうした現象を、「現代の問題」として捉え、政府や国会、メディアへの不信を「愚行」というコンセプトをもって理解してみたい。
大衆は“衆愚化”しているのか
大衆とは何なのか、大衆社会とは何かという検討はオルテガに任せておき、まずは、そもそも「大衆は衆愚化しているのか」という問題について考えたい。
ここで「衆愚化(ochlocracy/mob rule)」の観点から考えてみる。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、民主政が「多くの人による統治」である以上に、時として「多数の愚かな人々による統治(衆愚政)」へと転じ得るという批判を提示している。
実際に、極右勢力の台頭、人種差別・排外主義の言動が日常社会に浸透してきている状況をみると、「大衆が理性的な市民ではなく、感情に動かされやすい群衆」に向かっているという読みに十分な根拠がある。例えば、ポピュリズムが「人々の恐怖・不安・無知を動員し、群衆的な反応を創出する」という論文も存在する。
日本経済新聞も民主主義指数(V-dem)の分析を示しながら、衆愚化に警鐘を鳴らす記事を出している点も無視できない。しかし、いずれの場合でも「衆愚化している」という仮説が成立しているとは限らず、むしろ吟味が必要であるかもしれない。
しかし、オルテガが「大衆の反逆」として警告した通り、常に人々が様々な情報、中には情動が強く動かされるものもあれば、取るに足らないものまでに溢れた中で多数のアジェンダに対して何かしらの態度表明を求められている現在の社会を踏まえれば、事実上衆愚化していると言っても差し支えないのではないだろうか。
「愚行権」という考え方
さて、次に「そもそもなぜ衆愚化が問題なのか」という根本を問い返すべきである。近代思想の基盤を築いたJ.S.ミルは『自由論』の中で他者危害原則や危害原理と呼ばれる考え方を提唱する。ごく簡単に言えば、他者に危害が及ばない限りにおいて、個人の行為の自由は保障されるという考え方である。自由主義の基本的なコンセプトであるが、この他者危害原則をどう解釈するかが分かれている。
ではもう少しストレートに愚かであることを正面から擁護する考え方はないのだろうか。ここでは坂口安吾を参照したい。作家・坂口安吾は『堕落論』という著作の中で人は正しく堕落すつことの必要性を主張する。より具体的には健全で正しいとされる無数の社会規範から離れることを指している。こうした虚構によってどうにか社会は成り立っているだけで、むしろこうした規範から離れ、各自が生と幸福を追求してこそ本当に「よい」社会は成立するという。
つまり、「愚かであること」を前提にするならば、われわれはむしろ「人は生まれながらに愚かである」という前提に立ち、「社会化」の過程であたかも愚かでないように振る舞う、人為的な演技をしているという見方に至る。
この観点から、愚かさを批判し、矯正しようとすることは、実は新たな権力構造を導入したり、既存の権力関係をより強固にする作用をもつ。言い換えれば、「愚かであること」を前提から排除し、「理性的市民像」を目指して努めること自体が、統治側あるいは支配側の統制とフィードバックを強めるメカニズムになり得るとも言える。
このように、愚かであることを許し、むしろそれをスタンダードとして据える視座は、異なる統治・民主主義論を開けるのではないだろうか。そういう意味ではジェイソン・ブレナンの『投票の倫理学』はこの問題に選挙権という視座から挑戦していると言えるだろう。
愚かであることを恥ずべきものではなく、「日常的で自然なもの」として捉えるなら、そのうえで「愚かな大衆」と「理性的統治」の関係を再設計できはしないだろうか。
難解で遅々として何も進んでいない政府・国会
愚かであるわれわれから見れば、現在の政府のアクションや国会での議論は、難解きわまりない。まず、政府や国会での議論プロセスそのものが、市民にとって理解可能なものになっていない。議案の提出、審議、修正、可決という一連の流れが、しばしば結果的に“ブラックボックス”化しており、「何がなぜ決まっているのか」が見えにくいのである。
加えて、メディアによるアジェンダセッティング(何を問題として採り上げるかという操作)により、あれやこれやが問題化されるが、実際には解決されていないという印象を抱かせる場面が多い。例えば、報道で取り上げられた社会問題が、政府・国会の手続きを経てもなお放置されたままというケースも少なくない。それは政治報道に限らない。我々は常に凄惨な殺人事件の一方を速報として耳にすることは多いが、その後にどうなったのか、よほどの大事件(死刑や無期懲役判決)でないかぎり、事件の事実関係やその後について受動的に知る機会はほとんどない。
しかしながら、ここで重要なのは「民主主義には時間とコストがかかる」という事実である。なぜなら、何が正しくて何が間違っているのかは、単純に迅速に決められるものではないし、また、変えるべきなのかを判断するには慎重な議論と検証が必要だからである。
制度改革・法律制定・既存利害の調整というプロセスには多くのステークホルダーが関わるため、時間がかかるのは構造的な必然である。しかし、OECDの報告は、「信頼と公共サービスへの満足度は、効果的な統治を促進する重要な指標である」とした上で、日本における行政サービスの満足度・信頼度が平均より若干低めであることを示している。
もちろん、現状の速度が全く問題をはらんでいないかと言われればそうではないが、われわれにはpatienceが必要なのではないだろうか。もちろん、生存の危機にあるような状況は取り除かれる必要があり、次節でも論じるが、より地方自治体レベルでは機動力と省人化された行政手続が必要であるだろう。未だに窓口で職員の裁量によって生活保護が適切に受給できないという状況は明確な人権侵害であり、不正受給よりもその割合とそれが及ぼす問題の度合いにおいて極めて深刻である。
それでも、トランプ政権が一時イーロン・マスクを入閣させて行ったように、われわれはテクノクラシーの信奉者たちにやすやすと統治機構を明け渡すべきではない。人権の保障なしにテクノロジーによる合理化は進められるべきではない。
複雑な行政
政府や国会への不満・不信は、決して政府だけの非ではない。行政サービスそのもの、つまり「役所」「自治体」が提供するサービスの設計・運用においても、別の意味での“愚かさ”――市民から見て合理的に感じられない手続き・制度・運用――が存在しており、それが公的機関への不信を増大させているのではないだろうか。
たとえば、筆者が毎年地方自治体に提出する書類は、対面での申請を要し、電子化・オンライン化が進んでいないということを経験する。せっかく本人確認・特定認証の手段として導入されたマイナンバーカードをフル活用せず、「対面申請」という形式を維持している。その結果、「何のためにマイナンバーカードがあるのか」という疑問を抱かせる。
さらに、前述の通り生活保護の制度もまた、「できる限り介入を排し、ほぼ自動的に給付が行われるべき」という視点からすれば、手続き・確認・申請のハードルが依然として高いという印象が否めない。
こうした「制度の古さ」「民間水準とのギャップ」「手続きの煩雑さ」は、行政サービスの質の悪さ、あるいは「市民に寄り添っていない」という印象を生み、公的機関全体への不満感・信頼低下を誘発する。実際、信頼と行政サービス満足度の相関を分析した研究も存在する。
結論として、行政における「複雑さ・遅さ・見えにくさ」も、民主主義体制下における“愚かな大衆”という前提を見過ごした結果であると言えるのではないだろうか。
正統性なきウォッチドッグ
では、問題は政府・国会・行政だけにあるのか。答えは「否」である。むしろ、最大の問題はメディアにあると考える。かつて「権力を監視する」役割が期待されたマスメディアが、その責務を果たしきれておらず、しかもその存在自体への信頼が揺らいでいるのである。
まず、マスメディアは「視聴率・購読率」を軸に運営されていることを思い出す必要がある。そうした数字の背後には広告があり(そしてこの考え方は現在の日本に根深い学歴至上主義と分断を生み出した福沢諭吉が輸入した)、基本的には広告収益によるビジネスモデルである(とはいえ不動産やIPなど収益構造は多角化しているので一概に言い切れない)。
そのため「何を取り上げるか」「どう報じるか」というニュースの報道姿勢が、視聴・購買を促すか否かという要素の影響を受けていることは否定できないだろう。
より重要な問題は、「誰も記者・報道組織に対して明示的に“ウォッチドッグ”の役割を託していない」ということである。つまり、権力を監視するというのは当然の役割とされてきたが、それは市民からの信託(=委任)を得たものではなく、むしろ「勝手に監視している気になっている」状態ではないだろうか。
その結果、誤報・偏向報道といった事案が生じても、適切な謝罪や責任追及がなされず、むしろ報道機関自身が“聖人”的立場”から政府・企業・議員を批判し続けるという構図が生まれている。
そうした姿勢は、メディアそのものへの信頼を下げ、大衆の「メディア不信」を増幅させてしまう。実際、日本では、「メディアを信頼する」という回答が約68.7%という一方で、6.7%が「全く信頼していない」としたという調査もある。
さらに、メディア不信を大衆の“愚かさ”のせいにし続けた結果、新たなニューメディア(ソーシャルメディア・ネットニュース等)が台頭したとも言える。しかしながらそれらは報道機関としてのヒューマンリソースもインテリジェンスも欠けていることが多く、結果的にビュー数・視聴率ドリブンの報道もどきしかできない構図が強まっている。こうして、「正統性なきウォッチドッグ」の構図が、民主主義下の監視機能の空洞化を生んでいるのである。
むしろ、ヒューマン・ライツ・ウォッチのようなNGOや大学設置の研究所などが国内でも増え、かつそれらにお金が流れるような社会になることを目指す必要があるのではないか。
3つの「不」の解消
これまで確認してきたのは、愚かな大衆から発せられる「3つの不」である。それは以下のものである。
1. 政治不信:政府/国会への不信
2. 行政への不満:行政サービスの質・運用への不満
3. メディア不信:報道機関・メディアへの信頼低下
この3つの「不」を解消することこそ、愚かであることを前提にした統治設計、つまり「衆愚を前提とした統治」を構築するための必須のステップであると考える。
政治不信の解消には、プロセスの徹底的な公開・説明が不可欠である。市民が「なぜこの法案が提出され、こういう議論がされて、こういう結論に至ったのか」を理解できるようにする必要がある。例えば政府であれば、PR・メディアコミュニケーションの知見のある報道官によるメディア向け説明、国民向けの説明の機会や媒体の活用や、国会広報センターのようなものがあってもいいかもしれない。既に各政党はSNSやYouTubeによる発信を強化しつつあるが、こうした動きをもっと進め、ダイレクトにかつ、分かりやすい説明の機会を提供するべきだろう。
行政への不満の解消には、サービスの利便性向上・フィードバック機構の導入が挙げられる。例えば、電子申請・自動給付・市民が運用・改善に参加できる仕組みである。ここでこそデジタル庁が頑張るべきとは思うがそう上手くはいっていないのだろう。あとはキャス・サンスティーンが局長を務めたOIRAのような組織があってもいいかもしれない。
メディア不信の解消には、新たな報道モデルや監視機構の誕生が望ましいのではないだろうか。例えば、報道機関自身が透明性を持ち、誤報・偏向に対して明確な責任をとる仕組み。また、市民が資金を出して監視する仕組みも考えられる。
衆愚民主主義について
最後に、こうした3つの「不」を解消した上で構築される民主主義体制を、あえて「衆愚民主主義」と呼びたい。ここでいう「衆愚民主主義」とは、皆がみな高潔ではないし、みなリベラルでも保守でもないという前提に立つ民主主義である。
むしろ、「愚かであること」を前提にし、その上で「大衆が一定の合理的統治枠組み・制度設計のもとで機能する」ようなアーキテクチャを提示するものである。
この考え方の利点としては、理想的な“理性的市民”像を仮定せずに、「ありのままの人間を想定する」ことで、より現実に即した制度設計が可能となる。批判としては、やや悲観的・消極的な視座になりかねない、あるいは「愚かな人々がいくらでもいるから制度が壊れても仕方ない」という諦観を助長する可能性がある点である。
とはいえ、現代の政治・行政・メディアが直面している「遅さ」「複雑さ」「不透明さ」「信頼低下」の文脈において、「衆愚を前提にする民主主義設計」はむしろ時代の要請と言えるかもしれない。

